江戸幕府の統治

                  平成281124日 中里諏訪神社相談役 小池正夫

 

 

江戸時代は完全に身分制度が確立した時代であった。

 

支配階級である、武士が勝手に自分達の都合の良いように、江戸幕府の身分制度はいまからでは、想像も及ばないほど厳しいものだった。武士「幕府」の封建的支配のために自分たちのためにだけ都合よく作られているのは、言うまでもない。農工商穢多非人と勝手な階級をつけ、分裂させ、かつ反目さすことによって、武士階級への風当たりをやわらげ、統治をしやすくする仕組みであった。その謂れのない人間の価値づけが、長い間、自然として、あるいは、宿命として、被統治者に受けとられていたのだから、恐ろしい「この誤った身分観念が現在にまで尾をひいていて、いわれない差別を人間同士のあいだに残しているのだから大変なことだ」。この差別観は享保年代「1715年頃」からきびしくなり、文化文政時代「1804~1829年頃」には、一層はなはだしくなってきた。当時、部落民の大部分の職業は死牛馬の処理とか、皮革細工などであった。彼らは人間外の人間として扱われ、農村からもほとんど締め出されて、小作にすらなれなかったのだ。穢多非人の称を廃するいわゆる解放令がでたのは、明治四年「1871年」のことだが、その後も今日まで、本当の意味では解放されていない、彼らがいかに不当な差別を受けていたか、少し参考のために記してみたい。

 

各藩によって、いくらか相違はあるし、穢多非人より下の身分とした藩もあったが、その取扱いは、とにかく人間として認めたものではない。

 

 穢多の身居、宗門帳は百姓町人と別にすること、穢多部落には穢多頭を置き、彼らのありさまを細かく書きあげること。男女七歳から必ず五寸四角の毛皮を胸のところに吊って歩け。家の入口には穢多とすぐわかるように毛皮を下げておけ、女の髪は内分けにかぎる・

 

飾りもつけてはならぬ。山狩人でも、脇差を使ってはならぬ。下駄や傘は雨降りにも用いてはならぬ。芝居見物に多人数ではいってはならぬ。百姓町人とまぎれぬよう必ず雨ざらしの場所にいろ。在方で商売をしてはならぬ。ただし皮だけはよい。日が暮れてから道を歩いてはならぬ。道を歩く時は間中でなく道のへりを通れ、日笠も用いるな。竿を使って魚を釣ることはならぬ。武士が魚を釣っているとき、そのそばに寄ってはならぬ。マゲはワラでしか結んではならぬ等々とあげてゆけばキリがない。

 

 彼らが人間としてあつかわれなかった最もよい例は、江戸時代の地図である。たとえば、

 

甲地から乙地まで十里と書いてあったとしても、信用は出来ない、その道がもし穢多部落を通り抜けていたとしたら、そこの間だけは里程の中にはいってないからだ。だから甲乙地間がじっさいには、十一里あるかもしれないし、十二里あることだって起こりうるのである。差別といってもここまでくれば、人間の中に入れていないのだから恐ろしいというよりほかない。                              1p

 

 

 

 

 

 ごぞんじのように、封建社会では、農業がおもな産業であり、農村経済は自給自足がたてまえ、である。どうしても自分の所で作れないもの、例えば塩のようなものは、米なり麦なりで買うことになる。ところが、しだいに農業技術が進歩してくると、年貢の余りや時間の余裕もできてくる。もちろん、領主は血なまこになって百姓の手元に一粒の米も残らないようにしぼり取ろうとする。

 

「おまえたちはアワかヒエでも食っていればたくさんだ」

 

 というわけだが、百姓もご無理ごもっともと言いなりになってばかりはいない。

 

人間は成長するのだ。そのうち農産物や副業的な手工業品がはじめから商品にする目的で作られはじめるようになる。それを町に売りにいったり、商人が買いにきたりするようになると、とうぜん農村にもお金の流通がさかんになる。こうして商品経済、貨幣の流通がさかんになってくると、必ず資本が生まれる。農村にも商業資本や高利貸し資本がはいってきて、農民の生活はいやおうなしに変わってくる。徳川中期以後は、酒屋とか醤油や紺屋、麹屋、よろず屋、などの商工業を兼業する地主が目立って多くなる。この商工業で資本をためこんだものや、都市の資本家が新田を開発したり、貧農に金を貸して土地を質にとったりして、さらにふくらんでゆく。すでに八代将軍吉宗の頃には、こうした傾向がみられてくる。この状態は江戸幕府後期になればなるほど、進んでゆく。中期以後何度も「改革」が行われた。その根本課題はどうして資本の農村侵入を防ぎ、年貢米をつくる農民を昔ながらの自給自足経済のなかに閉じ込めておくか、この幕府の焦り、成長する資本との「格闘」が「改革」と呼ばれる形であらわれるのだが。

 

だから「改革」という言葉に惑わされてはいけない。いつの「改革」もその根本精神は、幕府の存立を維持し、武士階級の生活を擁護するためということであった。歴史の必然として殻をやぶって自然にもりあがってくる、国民のために、彼らの生活をすこしでも、よくしようという「改革」ではなかった。それどころか日本全人口のたった一割そこそこの、武士階級の利益をまもるために、あとの九割に犠牲をしいる改革だから、大迷惑をこうむるのは、それらの農工商にしたがって生きている、庶民だった。しかも農村は全人口の八割以上いたのだから。改革の被害者はだれだかすぐにわかるだろう。

 

改革という名はいいが、その精神は社会的発展を押しとどめようとする反動であり、したがって、あらわれた政策はつねにほとんど弾圧である。八代将軍吉宗の「享保の改革」はどうか、封建制度の基盤は土地経済だ。農民を自給自足の原始的な生活に閉じ込めておいて、わずかに彼らを生かさず殺さず、ようにして余分がでたら、そっくり召し上げる経済組織だ。このような言葉が幕府の政策にある「百姓は天下の根本也、先ず一人一人の田地の境目を良く立て、さて一年の入用作食をつもらせ、其余を年貢に収むべし、百姓は財の余らぬように、不足なきように、治むること道なり。毎年立毛の上を以って納むること、古の聖人の法なり」

 

 とんでもない聖人の法だが、これが、江戸幕府二百七十年かわらぬ農民支配だったわけだ。しかも「不足なきように」という文句はつねに忘れられていて、      2p

 

 のちに吉宗の勘定奉行になった神尾春央(ひで)の放言したように「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という根性だから救われないのは百姓だ。将軍や大名を頂点とする武士社会が土地を独り占めし、そこに農奴としての百姓を縛り付けて権力をほしいままにして、すこしでも反抗すれば容赦なく酷刑をもってのぞみ、士農工商穢多非人という厳重な身分制度を勝手にさだめ、武士が政権をにぎって社会の秩序維持にあたったのが、江戸時代だった。

 

 この土地経済のうえであぐらをかいていた武士階級が、土地経済をくずしてしまう商品経済の発達を恐れるのは当然だ。武士は政権も武力も、あらゆる権力を握ってはいたが、ただ一つ、つかみそこなったのが、歴史の流れの正しい方向であり、金だった、すっかり都市生活者になり消費階級になった武士は貨幣経済が発展し、町人社会が発達してくると、ついには、こちらから彼らに泣きつくような状態になってくる。武士のふところ具合が苦しくなったのは、将軍のお膝元の旗本、御家人といえども、例外ではない。それどころか、巨大な消費都市江戸で生活しているだけに、深刻になるスピードも速かった。知行地の

 

年貢をあげている、知行取はまだ年貢を上げたりして、やりくり算段はいくらかつくが、きまった俸禄しかない蔵米取となると、そんな伸縮自在の手はうてない。蔵米取は浅草にあった米蔵からきまった時期に禄米をもらうわけだが、その米蔵の前に発生したのが「札差」という商人で彼らが旗本の金融をやってくれたわけだ。

 

 旗本、御家人は蔵米を原則として春夏冬の三季に受け取ることになっていた。春は陰暦の二月、夏は五月、冬は十月の定めである。しかし御蔵米が不足しがちだったので、ときには一部を米、一部を金で渡すこともあった「ひどい時は欠配した」こんな時の米の値段が決まってないと困るから、米の値段を御城の中の口に張出した。これが「御張紙値段(おはりがみねだん)といわれるもので、はじめのうちは、この御張紙値段が米の時の相場になった。それだけ権威があったわけだが、元禄の頃になると、諸国の大名たちの米が集まる大坂の堂島の相場の方が有力になって、こちらの方が御張紙値段を決定するようになった。この事実は、貨幣経済が発展してきて、需要供給による市場価格が物価の決定に有力になったことをはっきり示しているのだ。

 

 さて、蔵米を受けとるについては、旗本、御家人自身で出向くか家来をやるしかないが

 

何表も何十表も運ぶのはたいへんだし、それを置いておく場所も考えねばならない。この手数を省いて彼らの代理としてこれを受けとって、売って金にかえてくれるのが、札差という町人である。それがだんだん、旗本や御家人の来年も再来年もの禄米を担保にとって金を貸すようになった。札差は札差料百表「三十五石」について金一分、販売手数料である売側百表について金二分をとったが、札差がほとんど軒並み富裕になって「蔵米風」といわれるほどの豪冨になったのは、ただ代理人としてのわずかな、手数料収入からではない。彼らが禄米を担保にとって、武家相手に高利貸をして大儲けしていたからだ。

 

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 吉宗は享保九年「1724」七月に浅草蔵米の札差を百九人に制限している。

 

これは享保の改革の一環で町人資本への統制の一例である。

 

 とにかく武士が、江戸や城下町などの都市に住んで、禄米を金に変えて生活しなければならなくなったときから、すでに彼らの運命は決まったといえる。米相場の上げ下げは町人の手中にある。米の値段は百表について、特に高い時は六七十両にハネ上がり低い時には二三十両にまでガタ落ちしたりしたが、武士はいつも米の値段の安い時に手放さねばならないように、うまく米商人どもにシテやられた。武士が困ってくると、彼らは年貢の税率を上げて、ますます農民から搾りとろうとする。また一方では、貨幣経済の農村への浸透が農民層を分解させて、少数の富農ができるかわり、たくさんの貧しい農民が生まれる。

 

 挟み討ちにあった貧農は死物狂いになって反抗する。享保の頃からは、百姓一揆が目立ってふえてくる。

 

 徳川家康が用意周到に組立てた幕藩体制も内部に成長してきた、経済的矛盾のために、

 

ぐらつきはじめてきた。家康の創業からわずかに百年だ。

 

この危機を「打開」するために、紀伊家から迎えられたのが八代将軍吉宗だ。

 

 武士道とは御扶持と見つけたり

 

 

 

享保の改革はまず吉宗の独裁体制の確立ということからはじまった。

 

独裁体制をつくるのには、かならず、一見、見栄えのする経済安定がなければならぬ。

 

しかし、吉宗には貿易も植民地もない、資本の産まれるところは一つしかない。

 

農民的商品経済の発展にたいして、彼らを昔のままの自給自足の生活に押しこめ、年貢をしぼりとることが徹底的におこなわれた。幕府でも諸藩でも、いまのように予算を立てて支出をまかなったのではないということだ。前年の年貢米を金に換えて、それで次の年貢米がはいるまで、だから、財政は年々膨張して、もともと不足がちのところへ、天災とか

 

将軍や藩主の冠婚葬祭などおもいがけない、出費がかさなると、たちまち破産状態だ。一度ひろがったら、もとのようには縮まらないのは現在の我々だって幕府の金庫だって同じだ。そのために、年貢は取れるだけ取り込んでおこうとするから、たまらないのは、百姓だ。

 

 農民蜂起の実態

 

享保の改革がいかに「善政」だったと主張する人がいるがこの時代からにわかに百姓一揆が増えてきた、享保五年「1720年」十月に会津地方の幕府領所におこった「会津お蔵入り騒動」というのがある。それにはこの地方の不利な自然的条件がいかに農民にとって困難なものであるということから説きすすめ、年貢の延納を認めてほしい、年々引上げられる祖率を慶長金通用当時の祖率まで下げてほしい。臨時の税や郷頭「大庄屋にあたる。代官または郡奉行と村役人の中間にあり、その職分は代官からつたえられた法令などを名主、庄屋に取り次ぐ管内の百姓の訴訟を吟味解決し、手にあまるものは、代官に申達するなどが主なもの」が勝手にかけてくる課役の廃止、               4p

 

いまの代官になってからかけられた新税の廃止、飯米給与の減量や代価引上げや郷頭の中間搾取の廃止、貢米の江戸回漕の停止(このためには百姓にたいへんな費用と労力がかかる。)まだ収穫もロクにない新田を貢祖地に編入して高い年貢をかけることの中止などを要求した。さらに、去年幕府からの命令で年貢の金納をまた米の現物納にかえられたが、このように百姓の死活にかかわる重大事を百姓には一言の相談もなく郷頭だけで承諾書を出したそうだが、もってのほかだ。そんな事を命ぜられては、だれも、耕作などしなくなるぞと、おどかしている。いろいろ郷頭の不正を洗いたててから、最後にだいたい郷頭などいうものは、百姓のためには無用だから、そんなものはやめてしまって、万事直接に名主や百姓に命令してほしい、そうしたら費用もはぶけることだし、それだけ代わりに上納してもいいと言っている。十三カ条のうち七カ条は郷頭の不正と圧迫に対する弾劾だ。これに対して幕府からの回答があったが、農民は不満足だとして再願している。(六年二月)

 

郷頭もほうっておけないから、農民の言い分について反駁分を提出(六年八月)。すると農民は追願書を評定所に提出し、いっそう数学的論理的に自分たちの主張を展開している。

 

もし取りあってくれぬなら、耕作はすたって年貢はとれないぞ、いっそ将軍に直訴しようかと脅かしている。

 

これを見てもわかるように、いままでの一揆のように追い詰められたあげくの受け身の要求ではなく、具体的条件から論理的かつ積極的に要求をうち出し、しかも、経済的要求だけでなく、郷頭廃止要求に見られるように、幕府の行政機構の廃止という政治的要求をかかげるまでに成長しているのだ。幕府はあわてふためいた。その証拠に、江戸にのぼってきた、代表ぜんぶと、国もとの徒党三五〇余人を投獄し、主謀者六名を死刑、三八四人すべて処罰するという空前の大弾圧に出た。(百姓一揆の伝統の本)

 

これまでの一揆は代官や大庄屋の不正を訴えて騒ぎたてるという形のものが多かったが、いまや、幕府の中間支配機構ともいうべき、機関の廃止を公然と要求してきはじめたから、こうなっては百姓の機嫌をとったり、また一揆騒動は油断ならぬが心配するほどのことではないと、タカをくくっていた考え方をあらためねばならなくなった。

 

一揆徒党の禁令は、これから明治初年にかけて、まるで年中行事のように頻発に出される。

 

 

 

 このへんで、当時の農民の生活に目を向けてみたい。

 

そこにはいくつもの、階級がある。苗字帯刀を許された大百姓から無高の水呑百姓まで、じつにたくさんの階級にわかれ、また各藩によって呼び方もちがっている。享保年間にはいると、農村のなかで階級分化もすすんでくるが、だいたいそのうちでも、中以下の層に属する百姓の生活の悲惨さは、言語に絶する。小説や読み物で「ナントカ義民伝」的に書かれたものだから、およその概念をもっている人も多いだろうが、私は松本清張の本を読んであらためて、慄然としたものだ。

 

 

 

 まさに彼らは「農奴」以外のなにものでもなかった。          5p

 

 一片の自由らしさも持つことが許されないのだ、その農民統制の徹底ぶりは、いかに封建時代とはいえ、「よくこれまでも」と驚嘆する。犬猫の方がよっぽど生物としての自由がある。多くの藩が百姓の一年間の暮らし方までこまかくきめている。いや、毎日毎日の働き方まで規制されている。

 

「男は未明より暮れまで、鍬のさきのめり入ほど田をうなぶべし」そして男が働いて帰ってきたら、女房は湯で足を洗わせ、女房の腹のうえに足をおいてさすってやれーそんなことまで言っている。農村で芝居や見世物をやってはならない、子供がふえたり病人が出たりして、一軒の家の中に同居するには狭くなっても、敷地内に掛け小屋をつくるか、差しかけを出すかするだけで、家を新築してはならない。商売に類することをしてはならない、百姓は雑穀を食え、着物は無地の木綿にかぎる、傘も合羽も用いるな。チョン髷の元結はワラでしばれ。髪に油はつけてはならぬ、タバコは一日四回しか、吸ってはならぬ、酒は飲むな、大茶をガブガブ飲んで話しずきの女房は離縁してしまえ、年貢末進の百姓の女房は人質にして小者や中間のなぐさみものにするぞ、なとどキリがない。しかも「年貢さえすましたら百姓くらい気易いものはないのじゃ」と勝手なことを言っている。こんな話はまだ序の口である。幕府はもちろん、諸大名が農民にだした、禁令は彼らをガンジガラメにしている。しかも諸藩のほうがいっそう酷しくこまかい。夜の明かりは油を使わずに炭のあかりでワラを編めとも言うている。百姓には眠っている間もないのである。領主たちが財政的に困窮してくればくるほど、農民統制は狂的になってくる。自国領内の農民こそ、領主にとって財源であるはずなのに、これを遇することは、なるで仇敵にひとしい。

 

 百姓たちは、村役人の監視、五人組の密告制度のなかで、どこで息をついたのか不思議なくらいだ。 

 

 これにたいする農民の消極的な抵抗が、間引き、洗い子・「おしかえし」などと言われた 

 

生児を殺す方法。あるいは棄て子、または胎児などだ。享保以後、明治に至るまで、農村人口がいっこう増えなくなった原因はやはり農民の困窮なのだ。農民は親子代々ひとつの土地にしばりつけられ、わき目もふらずに田畑をうちつづけるだけだ。別途収入を得ようとしても、商売に類する副業は禁止されている。手ごころも有らばこそ、領主は高い年貢をとりたてる。「たとえ表面上は五公五民となっていても、いろんな名目で課税されたから、七公三民くらいになるのは普通だった」生産力は上がってきたとはいえ、それも前時代との比較のうえでのことで、やはり乏しい、しかも周期的におそう飢饉のために、百姓の小屋に残る米麦は一粒もない。こんな農民の家に家族が増えたら、どうしようもなかろう。

 

 農村の間引きや胎児の習慣は、戦後時代日本にきた、キリシタンの宣教師の記録のなかにも見られるが、江戸時代がもっともひどかった。間引きは東北に多く、佐藤信淵という人は、年々六、七万はくだらないだろうと書いている。胎児は中国、四国、九州に多かった。これらは、両方とも殺してしまうことだが、越後では女の子が、七つ八つになると、他国へ売ったというから、殺さないだけの話で、もの心ついた娘たちの苦しみと悲しみが、かえって胸をうつではないか。                      6p

 

さらに悲惨なのは、間引きをしそこねて、生きながらえた子供たちだ。赤ん坊を殺しかけたが、急に哀れになって、親が思いとどまった場合でも、子供は片輪になるか白痴になるかして、不幸な一生をおくらねばならなかっただろうことは、想像にかたくない。

 

また原始的で野蛮な胎児法を失敗したり、生まれるとすぐに間引かれる我が子の哀れさに狂い死した母親たちも多かったことだろう。この頃の農村では、だれそれの家で子供が生まれたとわかっていても、間引きせず育てるかどうかまでお祝いに行かなかったというから、これほど悲惨なことはない。しかしこのように、痛めつけられた、農民がーーーしだいに、一揆の指導性は初期とちがって名主・庄屋などの上層農民から下層農民に移ってくる。いつの間にか、政治的に成長し、幕藩体制を脅かす程に幕末には成長するのだ。

 

 

 

 幕府の考えは土地は公儀のもので、農民には土地の所有権はなく、彼らが耕作すればよいというだけではない。耕地が勝手に売買され、大百姓が出現したり、反対に売りはらって、年貢の負担もできない零細農がふえることを防止したいのが、幕府のねらいだ。

 

そこで名主は高二十石、本百姓は地面一町、高十石、以上もたなければ、子供に分地することも許さなかった。

 

 

 

 ここで非人のことを書いてみたい。心中事件などを起こしたもの等の輩はそのままにしておくのは風紀上よろしくないと、非人に落とした、心中というのは、必ず成功するとは限らない、男が死んで、女が生き残った場合、女は非人にされる。その反対の場合は女が死んで男が生き残った場合は男は「下手人」。もっとも「相対死の片相手は死罪」ときまっていた。次は、主従で心中した場合は、主人側が生き残った時は、男女を問わず非人にされた。反対に家来側が生き残った場合は、男女を問わず非人にされる。又、主従ともに生き残った場合は、江戸の場合、日本橋に三日間さらされたうえ、両方とも非人にされることになっていた。非人にされたものは、非人の群れにはいって、非人小屋で寝起きしなければならない。非人になれば、非人頭の支配下にはいるのだが、非人は穢多とちがって、金で「足洗い」ということができた。すなわち、一度非人に落ちても金でもとの身分に帰れるのであった。          

 

 

 

 まだまだ書き足りないものが、たくさんあるのですが、また資料を駆使して、書いてみます。

 

憲法と靖国問題について

                         中里諏訪神社相談役 小池 正夫


私の持論ですが、憲法は改正すべきだと、思います。その理由。

GHQの作成

◎時代にそぐわない。

◎自国民で作る。

憲法は国の基本的な在り方です。文化、安全保障、その国の価値観を表すものです。まず

敗戦の結果、屈辱的に押し付けられた、当時のGHQ担当のホイットニー中佐により広島

長崎の「恫喝」で作られたプロセス、GHQの作った草案を100%飲まされた、皇室との関係、各国の憲法は分かりませんが、それぞれ民族の香りがそして誇りがあると思われます。

憲法前文は日本国政府は愚鈍でよろしい、何もしなくてもよろしい。能力もなくてよろしい、と事実上うけとめ兼ねません、国民の命、幸福、安寧を守っていくことが為政者の一番大きな責任だが、前文の中になんと書いてあるか、私達の命を「国際社会にあずけなさい」と読み取れるところがあります。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」まだまだ続きますがこんな馬鹿な文章はおかしい、とおもいませんか、具体的に分かるように具体的な国の名前を入れて文章を見てみますと、中国は連日連夜尖閣諸島、領海侵犯している。歴史を捏造して、我が国に非難の矢を投げかけています。

「中華人民共和国のような平和を愛する国の公正さと信義の厚さを信頼して、日本国と日本国民の安寧と生存を守っていこうと決意した。」北朝鮮しかりです。我国民、の命、家族の命、外国に預けないでしょう。このおかしい、ということが前文の中頃に書いてある。

それを七十年も変えずにきた。中国は日本にたいして、友好的な面と尖閣諸島に公船を入りこませている面と両方ある。芯は強硬な中国の実態と、アメリカが(世界の警察でいることに)「そろそろ疲れてきた。」と言うようになった実態を合わせて考えると、戦後の日本の安全保障を担保する枠組みが根本から変わってきたと考えざるをえません。

今まで゛のようにはいかない。私達が変わらなければいけない、私達の力で国民を守らなければならなく、なってきたと。守るためには力がいる、経済力、軍事力、国民の意思の力、経済はアベノミックスで成長しようとしている、難しいのは軍事力、中国は四半世紀以上も歴史上に例のないような異常な軍拡を続けてきた、これに追いつくのはとても困難だし不可能だ、また日本は中国のような軍事大国になる気は毛頭ない。我が国に見合った

軍事力を持ち、憲法改正をして、自衛隊を軍隊として行動できるようにしながら、突出した軍事力を持つ道を選ぶのでなく、日米安保治条約をもとにしてインドやオーストラリア

東南アジアと自由や民主主義や人権の弱い人を大事にする。環境を守る、色々な意味で価値観を共有する国々と互いに手をつなぎながら、軍事的な抑止能力をもっていくのが良いと思います、

それは簡単なことではない。私達の心が問われることです。戦後ずつと「日本人がやらなくたってアメリカがやってくれるんじゃないの?」「私は嫌だからアンタやって」これが

日本人の精神世界だった、そうではなくどんなに小さな国であっても、どんなにお金がなくっても、我が国は立派に日本国民の手で日本国を守ってきた。それが私達の国の誇りある伝統だ。同じ敗戦国の西ドイツは占領軍の命令て゛基本法(憲法)の制定に乗り出したが、草案作りからドイツ人自身の手で行った。1956年には再軍備も整えた。日本とは対照的です。今、安全保障環境は現憲法の見直しを迫っています。経済大国となった中国は軍拡を進め尖閣諸島をねらい、海洋覇権を追い求めています。安部政権は日米同盟の抑止力を高めるため、昨年「保有しているが行使できない」としてきた集団的自衛権について、行使を限定容認する、憲法解釈変更を閣議決定し、関連法案の整備を急いでいます。

9条改正が必要な理由はここにあります。9条は絵空事、2院制は直す地方自治はミニ大統領、製造の問題ですかね、自衛隊は国民の生命、財産を守る為にあります。

憲法の前文と今の9条で日本国を守れるのか?第三章は権利ばかり書いてあり責任と義務がない。

靖国については、この一端はマスコミにも問題はあるとおもいます。勿論、日本国の責任もあるでしょうね。中、韓はいつから、いちゃもんをつけたか?昭和53年頃、時の大平総理はこれは歴史が決めるといって中国を訪問、大歓迎を受けました。1980年の中曽根総理も訪中した時も大歓迎しました。日本国はソ連が脅威でしようと言っていたんですね。

日本国の軍事費を増やせとも、その時は言ったんですね、ところが1985年の頃から突然、中国は文句をいいだしてくる。じゃあこの以前の六年間は何だったのか、日本の報道はどうしてこうなったかという基準がなく日本のメディアの自虐史観に我々国民は踊らされている。日本政府にも問題はあるとおもいます。国際社会にキチンと説明してこない。国際社会はどう思うか、1952年のサンフランシスコ講和条約により解決したはずなのに、当時の人口20歳以上4500万人が連合国の了解をとった平和条約だ。終わったものを振り返している。永い時間はかかるか゛一致しなくても努力するしかない。1945年に日本は極東軍事裁判で責任はとったのです。国には国の文化があります。毅然たる態度をとらないから、こういう事になるのです。靖国は歴史問題より政治的問題にされている。欧米またはアングロサクソンの定義が正しく日本の歴史を知らない、だから日本は世界に向けてアピールする事。戦勝国と敗戦国がいまだにあり、日本の一部の自虐史観が行き渡っているから是正する、そして世界に発信「正しいこと」を

日の丸の旗

                                                                          中里諏訪神社相談役

                                 小池 正夫

 

 中里諏訪神社の例大祭「今年は十月五日」には奉納した方々には昨年より日の丸の扇子をお返し袋の中に入れてあります。そこで日の丸の旗について、その由来を書いてみたいと思います。京都へ行くとこんな話が伝わっております。その昔、京の五条の橋の上で牛若丸「源義経」と弁慶が出会い、弁慶は太刀、千本集めるとして、千本目に牛若と出会った、ところが弁慶はこの若者を倒すどころか、五条の橋の上の欄干に乗られひらり、ひらり扇子を持って交わされ、ついに、この若武者の立ち振る舞いに惚れ込み、家来にして頂きました。その扇子こそ日の丸の扇子だったのです。そのご源平の合戦で源氏は平家を滅亡させるのですが、いよいよ最後に近づいた時壇ノ浦にて平家のご仁が船に的を立て、この的を射てみせよ、と言った時源氏の那須の与一が見事に弓矢にて射てた、それが又日の丸の扇子であった。つまり我こそが日ノ本の国の覇者であるということであった。

 

太陽信仰は古代においては世界共通の事象でありますが、日本は世界の東の端にあると自らも認めていたし、他からもみられていたので、とりわけ強い信仰があったと思われます。天皇家の祖先である天照大神が太陽の人格神化で天の岩戸の神話で明らかだ。

 

日本は独立国であると自覚と誇りをもってはじめて中国に対した聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という国書を当時の中国「随」の皇帝につかわした、という話は有名な話だが、ここにも太陽の出ずる国であることを誇っている意味合いがある。日の丸の旗の旗が、この太陽信仰にもとづいていることはまちがいない。(海音寺さんの著より)

 

 天皇家の旗、武家大名の軍旗などはずいぶん昔から使われている。朝廷の儀式の際、南北朝時代には、南朝の錦のみ旗には必ず金銀をもって日月を打ってあったというし、戦国時代には、武田信玄、上杉謙信、共に日の丸の旗をつかっている場合がある。

 

 一説によると、弘安四年「西暦1281年」の蒙古襲来の時、時の鎌倉政権は日蓮上人に頼んで日の丸をかこんで、その中に南無妙法蓮華経と書いてもらった旗を筑前「今の博多方面」の今津の浜の陣頭にひるがえさせたとある。「海音寺さんの著」とりもなおさず日の丸は日本国の象徴として使われているわけだが、日の丸を日本の国旗とする考えが出たのは幕末になって、外国船が頻繁に渡来するようになり、外交問題がやかましくなってからだ。旗というものは、他と自らを区別するためのものだ、強力に鎖国が行われ、日本だけを全世界と考えていた時はさして支障のない時代に必要のないのは当然だった。

 

 最初は諸外国の船と日本の船とを弁別するための旗印として、その必要が感ぜられた嘉永六年「1853年」十一月、薩摩藩主島津斉彬が、こう幕府にうかがいをたてた。「今度大船建造禁止令をご解除になったにつき本藩においては、洋風の大船十二隻蒸気船二隻を建造するつもりでいますが、それらの船には異国船にまぎれないように、白地に朱の日の丸の旗をかかげたいと思います。いかがでありましょうか」

 

 幕府では追って詮議の上で返答するであろうと答えて相談にかかり、翌安政元年七月に斉彬の考案したものを日本の総船印とすることに決定した。日本国籍の船全体の旗印だから、正式の国旗ではないが国旗的なものではあったのだ。この翌年安政二年二月薩摩では出来上がった船昇平丸を設計から工事一切、日本人だけで完成した最初の洋式帆船であったのだ。これに日章旗をかかげて、江戸湾に回航させた。これが日本船が日章旗をかかげた最初である。この船は幕府の所望によって幕府に献上した。この時から五年後、勝海舟らが臨海丸に乗って日本人だけで操船して太平洋を横断してアメリカを訪問したが、そこにはもちろん日章旗がひらめいていた。これが外国を訪問する日本船に最初にひらめいた日章旗である。それから徳川幕府はパリの万博に参加日章旗を我日本の国旗であるとした。この日の丸、日章旗が正式に国旗と定められたのは、明治三年正月だ。

 

今日はもうほとんど聞かれなくなったが、一時期日の丸に変えて新しく国旗を制定すべきだなど声があったが、了見のせまい話だ。国の長い歴史の中にはいろいろな事があることは個人と一緒だ。反省と後悔は忘れてはならないかも知れないが、こだわってはならない。国の場合も同じだ、顧みて恥じるところのない国がどこにあろう。どの国もいろいろな時期を経験して来ている。

 

日の丸の旗日章旗が日本人の誇りであり、全世界の有色人種の誇りであり、希望の光であった時代もあったのだ。国旗を変えようなどというせまい了見は捨てて、これを美しくて、輝き満ちてさわやかで、誇りあるものにすることを考えようではありませんか。 

 

 

                                  

参考文献:

海音寺潮五郎『史談と史論』