一神教の成立、キリスト教の成立、神道について、他

                 中里諏訪神社相談役 小池 正夫 令和2年9月6日

一神教の成立

何故世界でパレスチナだけ一神教が成立したのか。

 

〇自然宗教 通常は多神教になる

古代人は自然にたいする畏敬の感情を持っていた。

太陽が輝く、月が照らす、星がまたたく、風が吹く、雨が降る。

雷鳴がとどろく、嵐が起こる、大地(地震)がふるえる。洪水が発生する。人が死ぬ。

目に見える世界の向こうに、何か得体のしれない力があるのを感じる。→風神・雷神・天空の神等、また、狩猟・採集の生活段階より、農耕生活に入れば、豊作・多産を願う「豊穣」神が発生する。ある人々が一定の土地に定着し生活し続ければ、さまざまな神が生まれるのが普通。

 

〇古代イスラエル人の歴史 虚げられ、抑圧された人々の歴史

BC13世紀  出エジプト 預言者モーゼに率いられ、奴隷状態であったエジプトを脱出。この時、神(ヤーベ)に助けられたと感じる。約40年間荒野を彷徨し、カナン(パレスチナの旧名)の地に至る。

BC1000年頃 カナン人との戦いをへて王国建設 ソロモン王・ダビデ王の治世 イスラエル人はもとは羊・ヤギの放牧を生業としていたがカナンの地にて濃厚生活を始める。この時バアル神(豊穣の神)信仰等多神教になる。

BC900年頃 北王国イスラエルと南王国ユダヤ王国に分裂

BC700年頃 北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされる。

BC600年頃 南のユダヤ王国もバビロニアに滅ぼされ、バビロニアへの移住が強制される。(バビロニア捕囚)

BC538   バビロニアを滅ぼしたペルシャにより、パレスチナへの帰還を許される。

BC332年  アレキサンダー大王(ギリシャ)、パレスチナを征服。

BC2~3世紀 この間、エジプト・シリアの支配下にはいる。

BC63年   ローマによりエルサレム陥落

AD100年頃 ユダヤ教聖書(旧約聖書)の成立

 

〇生命の危険と抑圧された日々に考えこと

なぜ自分たちは戦争に負けるのか、自分たちの軍隊は弱いのか?なぜ神は救ってくれないのか。その原因は、神に対する自分たちの背信であると考えた一部の人々がいた。モーゼ他預言者の教えを守っていない。バアル豊穣神ヤーベ以外の神を信じた。我々がだめだから神(ヤーベ)は救ってくれないと。ここから予言者の教えに従へば、神は必ず苦難の日々から救ってくれると信じる信仰の共同体が生まれた。→ユダヤ教(一神教)の成立へ

当然救ってくれないヤーベの神は信じないとするイスラエルの人々も多数いたと思われる。

→ユダヤ教徒にならず。

 

〇一神教成立要因

    特異な地理 

パレスチナの地は文明の十字路に当たっていた。

東 メソポタミア文明 バビロニア ペルシャ 

北 アッシリア 

西 エジプト文明 

大国に囲まれイスラエル人国家を維持するのが困難であった。絶えず生命の危険と抑圧を受けていた。

    苦難の歴史 

部族の生存が掛かっているため神々を選んでいる余裕はなかった。ヤーベの神を崇拝し、たよるしかなかった。

  

 

キリスト教は何故ローマ帝国の国教にまでなりえたのか

ギリシャ・ローマの神々を打ち破った、その発展の原動力は?

 

〇ローマ帝国内の主な神々

ローマ ユピテル(英語名ジュピター)天空神 雷・雨などの気象を司る

    ウエヌス(英語名ヴィーナス)幸運と繁栄の女神

    マルス 戦いの神様 ラレース 家の守護神

    ディオニソス(英語名 バッカス)酒の神

ギリシャ アポロ 太陽の神 ゼウス 怒れる神

     ポセイドン 海の神 航行の神 メドーサ 神殿の守り神

エジプト ソル 太陽の神 イシス 海の神

 

〇歴史

30年頃 イエス ユダヤ教イスラエル派を開く

70年頃 対ローマ戦争でイスラエル滅亡、エルサレム神殿破壊、ユダヤ人地中海世界へ離散 イエス派は対ローマ戦争に参加せず。ユダヤ教からの脱却始まる。徐々にユダヤ教イエス派からキリスト教へ分離

「キリスト」はギリシャ語「クリスティアヌス」(救世主)に由来

2世紀頃 新約聖書完成

313年 ミラノ勅令によりローマ帝国に公認される

392年 ローマの国教へ ギリシャ・ローマの神々崇拝禁止、神殿破壊へ

 

ユダヤ キリスト教は最初の数十年間ローマ帝国にとり問題となるほどの社会的勢力ではなかった。ユダヤ民族の習慣に従い生活するも、彼ら独自の活動も持っていた。共同での食事、財産の共有、個人宅での集会・祈りなど。ローマ市民の反感 ローマの神々と皇帝の偶像を礼拝しない。ただし皇帝への敬意は表していた。町の祭礼への不参加、自分たちになじもうとしないキリスト教徒は不安と反感の対象であった。このためしばしば皇帝により弾圧された。(有名なネロ帝弾圧は60年頃発生)

 

〇発展の原動力

    パウロ始めイエスの弟子・孫弟子が熱心に布教活動を務めた。男女・身分・人種を問わず布教、ユダヤ教の戒律を緩くした。

    ローマの役人が調査したところ、その生活態度は清廉であり、社会へ悪さをしなかった。

    極貧者・病人へ手を差し伸べ、施した。ローマにおいては、貧しさは「さげすみ」と「不安」の対象であった。250年頃帝国内ではやった疫病への対応、異教徒と異なりキリスト教とは看病に努めた。これはキリスト教の世界観によるもの。死の向こう側にある未来を見つめて現世を生きる。最後の審判が重要との考え。

    経典・教義(新約聖書・旧約聖書)があった。一般に創唱(そうしょう)宗教(キリスト教)※は、長期的には自然宗教(ギリシャ・ローマの宗教)に対して優位になると思われる。※教祖・教団・競技をもつ宗教 

自然宗教は、願いを聞き入れてもらうようお祈りをするだけの段階。創唱宗教は、願いを聞き届けてもらうために、日々の生活をどのように律するべきかを説く。代表的な教え「汝の隣人を愛せよ」

    社会的弱者に寄り添うことにより、大衆に受容される潜在力を持っていた。

 

〇ユダヤ教との比較

現在の信徒数 ユダヤ教15百万人、キリスト教(カトリック、プロテスタント・正教)23億人。戒律の多さがユダヤ教普及のネックとなっている。

  

 

538年仏教が文明を伴い渡来後、何故「神道」は生き残ったのか。

※ローマ帝国では新興のキリスト教がギリシャ・ローマの神々を滅ぼした。キリスト教は、「文明」と伴にやってこなかった。

 

流れ

B.C200年ごろ  弥生時代に始まる

B.C1世紀    弥生時代の信仰 自然を畏怖する自然信仰、祖霊信仰

220年ごろ    大和朝廷誕生

3~6世紀     大王(おおきみ)をまつわる前方後円墳作られる、大王は没後、子孫を守る神にあると考えられる。

5世紀ごろ    漢字伝来

6世紀以降    大和朝廷は中央集権化を志向

538年      百済より文明※を伴い仏教渡来

         ※冶金技術、建築技術、絵画、経典、儀礼

         渡来豪族と親しい曽我氏は仏教を受容、朝廷の祭祀担当物部氏は反対

587年      物部守屋死亡、物部氏滅亡、仏教振興策が採られる。

607年      神祇の詔(みことのり) 各地方豪族の祭る大国主命(おおくにぬしのみこと)の上位に天照大神を位置づけ

645年      大化の改新、公地公民制

         中大兄皇子(なのおおえのおうじ)、中臣鎌足が曽我氏を打倒

701年      大宝律令(たいほうりつりょう)制定、朝廷の全国支配完成

712年      古事記完成「神道」の表現なし

720年      日本書紀完成「神道」と言う語がはじめて2個所に見られる  

         神話のかたちを整える。大王の祖先が太陽神である天照大神の命令を

受けて、日本を統治するようになったとする。

7~8世紀後半   万葉集編纂

8世紀以降    神道の外形が整えられる。

         仏教・仏画→神像・神の肖像画

         寺院建築→ 神社の建築

         仏事→神事の儀礼

 

仏教渡来時の神道

「神道」の名前そのものがなかった。中国「易経」のなかに霊妙なる道(自然の理法)として初見。その後、道教に名前がみられる。自然を畏怖する自然信仰・豊作を願う土地の神様、祖先を敬う祖霊信仰・氏神様のみ→世界中の古代信仰と同じ。

教義なし

神社建築(今日のような)なし

 

何故仏教に吸収されなかったか

    王家は日本統治の正当性を主張する日本神話を否定するわけにはいかなかった。ローマ帝国は、原則共和制。次期皇帝を決めるのは血統ではなかった。ギリシャ・ローマの神々を否定しても、当地の正統性が揺らぐことになった。

    仏教を逆に利用し、神道を整備していった。

    王家の交替がなかった。中国・朝鮮では易姓革命※あり

※中国古来の政治思想

姓をか(易)え、命をあらた(革)めるという意味

天子は天命により、その地位を与えられ天下を収めるが、もし天命に背くならば、天はその地位を奪い他姓の有徳者に置き換える。

 

  

道教の世界観

道教は、儒教と並んで中国が産んだ中国人の宗教。

古くから伝わるさまざまな神々の信仰や呪術(じゅじゅつ)を集大成したもの。

美しいものを見る。美味しいものを食べる、心地よい音楽を聞く等、この世は楽しいところである。この世への執着を大切にする。→「不老長寿(ふろうちょうじゅ)」を願う。仏教は、この世を苦しいところ、世の中はむなしい、と考える。一切のこだわりを捨てろと説く。

 

〇各宗教の考え

 

儒教

道教

仏教

キリスト教

普遍的理論

徳孝

×(注1

慈悲

祖先祭祀

△(注2

霊魂の救済※

×(注3

〇(注4

×(注5

※生者が祖霊を盛大に供養すれば、死者は苦界から逃れられるとの考え

1 長寿・財など現世後利益が主。普遍的理論がないため、他国への普及は限定的

2 カトリック・政教は、祖先祭祀を行うが、プロテスタントはしない。

3 祖先への「孝」のため祭るが、あくまで祭る側(生者)の繁栄のため

4 当初のインド仏教にはない

5 生前の行いにより、天国または地獄は決定される。生者が供養により変えることはできない。

 

〇歴史と各王朝の対応

一世紀ごろ後漢の時代に中国に仏教伝来。仏教の進出に刺激され中国の民衆の間に古くか

ら根をおろしていた神々の信仰と呪術が組織化され始める。

二世紀半ばに最初の道教教団「太平道」が現れる。後漢末期には「五斗米道(ごとべいど

う)」成立。五世紀前半北魏の新天師道は、みずから「道教」と名乗る。

             ◎国教 〇容認 ×弾圧

 

儒教

道教

仏教

 

後漢

北魏

北宋

南宋

中華民国

中国

中国(文革後)

2世紀

5世紀

581-618

618-907

960-1127

1127-1279

1279-1368

1368-1644

1644-1911

1911~

1949-1979

1979~

×

×

×

×

×

 

道教初めて国教となる

 

武宗皇帝は仏教を弾圧。845年多く寺院が破壊された

 

 

 

 

明・清はあらゆる宗教に寛大

 

宗教を否定

改革開放政策により宗教の自由を容認

           

 

〇神々

玉皇大帝(ぎょくこうたいてい):子孫繁栄・富・長寿を司る

泰山府君(たいざんふくん):泰山の近にあるとされる冥官の長官、人の寿命を裁定

送生娘々(そうせいにゃんにゃん):安産の女神

太上老君(たじょうろうくん):老子をまつる

馬祖(まそ):航海安全の神、大陸から海外へ渡った人々へ福を招く

関羽(関帝廟)三国志の武将:商売繁盛の神(横浜・神戸・長崎中華街にもある)

鍾馗(しょうき):悪例・邪鬼を退治

 

〇日本への影響

仏教・儒教と同じころ伝来。まとまった宗教の形では根を下ろさず。神道・仏教に溶け込

む。ただし沖縄では、中国と同様各地に道教廟(びょう)が作られた。

 

「神道」の語、中国の太平清領書・易経に見られる。

「天皇」の語、道教の最高神のひとり天皇大帝(てんこうたいてい)に由来。

熱心な道教信者であった唐の高宗(こうそう)皇帝は、自らを「天皇」と名乗っていた。

 

北斗信仰(北斗七星)※は、皇室礼儀に入っている。

※仏教と習合し、北斗菩薩となり人間の生死・禍福を支配すると信じられる。

 

神仙思想、陰陽道、易、風水、星占い、お符(お札)、日柄、気功、薬草、福禄寿など

浦島太郎伝説・羽衣伝説は、神仙思想がもとになっている。

 

 

 

ヒンズー教の世界観

インド、アーアリア人の宗教と土着民の信仰が混然一体となったもの。

名声・財・愛欲等現世利益(げんせりやく)を願う。および後世には精神の至福を求める。

 

インド文化史

    BC2500~BC1500年頃  インダス文明の終焉

アーリア人が西北インドに侵入。インダス文明を滅ぼす。アーリア人とは、サンスクリット語※で「高貴な」を意味する。※古代インドの文章語、

一般的にコーカサス地方からイランを経由しインドにきた人々をイラン人・インド人と言う。西に進んだ人々がヨーロッパ人となった。

    BC1500~BC500年頃  ヴェーダ(バラモン教)の時代

アーリア人は千年をかけて東インド(ガンジス川流域)に移住。「ヴェーダ」とは、雷(インドラ)・火(アグニ)など自然神に対する賛歌集。現世利益を願った。記録されたのは、紀元4~6世紀。それ以前は暗唱により伝えられる。カースト制を持つ。バラモン(僧侶)、クシャトリア(戦士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷・被征服民)の4階級

    BC500~AD650年頃  仏教・ジャイナ教隆盛の時代

BC317年インド最初の統一王朝マウリア朝成立。王朝は広いインド統治のため普遍的な社会、政治的倫理を必要とした。仏教が国教に採用された。ただし、他の宗教も排斥しなかった。マウリア朝アヨカ王・クシャナ朝カニシカ王が有名。

    AD650~AD1200年頃  ヒンズー教隆盛の時代

この時期にインドには強力な中央集権国家は出現せず、群雄割拠の時代となる。ヒンズー教は、現世利益に加え、苦に満ちたこの輪廻の世界から解き放たれる精神の至福を説くようになり、多くのヨーガ行者を輩出した。カースト制度が実質的な社会の枠組みとなった。

注:カーストとはポルトガル語で「種族・血族」を意味。サンスクリット語では「ヴァルナ制」と言う。ヴァルナとは「色」を意味する。各階級の各人が決められた仕事(義務)を守り行えば、社会の調和が保たれ、平和に暮らせるとの教え。仏教は平等を説き、身分固定化に反対。イスラム教は、身分の固定化を支持しなかった。→後にイスラム教は伸びた。

    AD1200~AD1850年頃  イスラム支配下のヒンズー教

13世紀以降インドは、イスラム諸王朝の政治支配を受けるようになる。

1219年 チンギスハーン、北インド進出

1401年 ティモール インド進出

1526年 ムガール朝成立

1600年 イギリス インド東インド会社設立

イスラム諸王朝は、仏教を弾圧したが、ヒンズー教徒は弾圧しなかった。

その理由〇ヒンズー教は、カースト制とともにインド社会に深く根を下ろしていた。

    〇偶像崇拝を禁ずるイスラム教は多くの仏像を持つ仏教を認めなかった。

    〇このため13世紀には仏教はインドより姿を消した。

    1850~   近代のヒンズー教

1856年ムガール朝滅亡。イギリスはインドを直轄植民地とする。インド社会はイギリス・ヨーロッパより自然科学・政治・社会制度を学ぶ。女性蔑視、下位カースト別紙の風習はすこし緩やかになった。現在、カースト制度は、公式には認められていない。

 

ヒンズー教の神々

ブラフマン:世界の創造神

ヴィシュヌ:宇宙を維持・存続させる神

シュリー :ヴィシュヌ妃にて繁栄・幸福の女神→吉祥天

シヴァ  :破壊の神

インドラ :軍神・英雄神・雷神→帝釈天

サラスヴァティ:河川の女神→弁財天

トルガ― :足の速い神→韋駄天

 

ジャイナ教

開祖 ヴァルダマーナ 釈迦とほぼ同時代の人 ジナ(勝利者)と呼ばれたことによりジャイナ教と名前がつく。人は、生前の行為により、天上界・中央界・地獄界と輪廻を繰り返す。下記の教えを守れば、天上界へ行ける。

不殺生・不もう語(嘘をつかない)・不与取(盗まない)・不埒・不所得(必要以上の財産を持たない)      

     

 

   

 

 

憲法と靖国問題について

                         中里諏訪神社相談役 小池 正夫


私の持論ですが、憲法は改正すべきだと、思います。その理由。

GHQの作成

◎時代にそぐわない。

◎自国民で作る。

憲法は国の基本的な在り方です。文化、安全保障、その国の価値観を表すものです。まず

敗戦の結果、屈辱的に押し付けられた、当時のGHQ担当のホイットニー中佐により広島

長崎の「恫喝」で作られたプロセス、GHQの作った草案を100%飲まされた、皇室との関係、各国の憲法は分かりませんが、それぞれ民族の香りがそして誇りがあると思われます。

憲法前文は日本国政府は愚鈍でよろしい、何もしなくてもよろしい。能力もなくてよろしい、と事実上うけとめ兼ねません、国民の命、幸福、安寧を守っていくことが為政者の一番大きな責任だが、前文の中になんと書いてあるか、私達の命を「国際社会にあずけなさい」と読み取れるところがあります。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」まだまだ続きますがこんな馬鹿な文章はおかしい、とおもいませんか、具体的に分かるように具体的な国の名前を入れて文章を見てみますと、中国は連日連夜尖閣諸島、領海侵犯している。歴史を捏造して、我が国に非難の矢を投げかけています。

「中華人民共和国のような平和を愛する国の公正さと信義の厚さを信頼して、日本国と日本国民の安寧と生存を守っていこうと決意した。」北朝鮮しかりです。我国民、の命、家族の命、外国に預けないでしょう。このおかしい、ということが前文の中頃に書いてある。

それを七十年も変えずにきた。中国は日本にたいして、友好的な面と尖閣諸島に公船を入りこませている面と両方ある。芯は強硬な中国の実態と、アメリカが(世界の警察でいることに)「そろそろ疲れてきた。」と言うようになった実態を合わせて考えると、戦後の日本の安全保障を担保する枠組みが根本から変わってきたと考えざるをえません。

今まで゛のようにはいかない。私達が変わらなければいけない、私達の力で国民を守らなければならなく、なってきたと。守るためには力がいる、経済力、軍事力、国民の意思の力、経済はアベノミックスで成長しようとしている、難しいのは軍事力、中国は四半世紀以上も歴史上に例のないような異常な軍拡を続けてきた、これに追いつくのはとても困難だし不可能だ、また日本は中国のような軍事大国になる気は毛頭ない。我が国に見合った

軍事力を持ち、憲法改正をして、自衛隊を軍隊として行動できるようにしながら、突出した軍事力を持つ道を選ぶのでなく、日米安保治条約をもとにしてインドやオーストラリア

東南アジアと自由や民主主義や人権の弱い人を大事にする。環境を守る、色々な意味で価値観を共有する国々と互いに手をつなぎながら、軍事的な抑止能力をもっていくのが良いと思います、

それは簡単なことではない。私達の心が問われることです。戦後ずつと「日本人がやらなくたってアメリカがやってくれるんじゃないの?」「私は嫌だからアンタやって」これが

日本人の精神世界だった、そうではなくどんなに小さな国であっても、どんなにお金がなくっても、我が国は立派に日本国民の手で日本国を守ってきた。それが私達の国の誇りある伝統だ。同じ敗戦国の西ドイツは占領軍の命令て゛基本法(憲法)の制定に乗り出したが、草案作りからドイツ人自身の手で行った。1956年には再軍備も整えた。日本とは対照的です。今、安全保障環境は現憲法の見直しを迫っています。経済大国となった中国は軍拡を進め尖閣諸島をねらい、海洋覇権を追い求めています。安部政権は日米同盟の抑止力を高めるため、昨年「保有しているが行使できない」としてきた集団的自衛権について、行使を限定容認する、憲法解釈変更を閣議決定し、関連法案の整備を急いでいます。

9条改正が必要な理由はここにあります。9条は絵空事、2院制は直す地方自治はミニ大統領、製造の問題ですかね、自衛隊は国民の生命、財産を守る為にあります。

憲法の前文と今の9条で日本国を守れるのか?第三章は権利ばかり書いてあり責任と義務がない。

靖国については、この一端はマスコミにも問題はあるとおもいます。勿論、日本国の責任もあるでしょうね。中、韓はいつから、いちゃもんをつけたか?昭和53年頃、時の大平総理はこれは歴史が決めるといって中国を訪問、大歓迎を受けました。1980年の中曽根総理も訪中した時も大歓迎しました。日本国はソ連が脅威でしようと言っていたんですね。

日本国の軍事費を増やせとも、その時は言ったんですね、ところが1985年の頃から突然、中国は文句をいいだしてくる。じゃあこの以前の六年間は何だったのか、日本の報道はどうしてこうなったかという基準がなく日本のメディアの自虐史観に我々国民は踊らされている。日本政府にも問題はあるとおもいます。国際社会にキチンと説明してこない。国際社会はどう思うか、1952年のサンフランシスコ講和条約により解決したはずなのに、当時の人口20歳以上4500万人が連合国の了解をとった平和条約だ。終わったものを振り返している。永い時間はかかるか゛一致しなくても努力するしかない。1945年に日本は極東軍事裁判で責任はとったのです。国には国の文化があります。毅然たる態度をとらないから、こういう事になるのです。靖国は歴史問題より政治的問題にされている。欧米またはアングロサクソンの定義が正しく日本の歴史を知らない、だから日本は世界に向けてアピールする事。戦勝国と敗戦国がいまだにあり、日本の一部の自虐史観が行き渡っているから是正する、そして世界に発信「正しいこと」を

日の丸の旗

                                                                          中里諏訪神社相談役

                                 小池 正夫

 

 中里諏訪神社の例大祭「今年は十月五日」には奉納した方々には昨年より日の丸の扇子をお返し袋の中に入れてあります。そこで日の丸の旗について、その由来を書いてみたいと思います。京都へ行くとこんな話が伝わっております。その昔、京の五条の橋の上で牛若丸「源義経」と弁慶が出会い、弁慶は太刀、千本集めるとして、千本目に牛若と出会った、ところが弁慶はこの若者を倒すどころか、五条の橋の上の欄干に乗られひらり、ひらり扇子を持って交わされ、ついに、この若武者の立ち振る舞いに惚れ込み、家来にして頂きました。その扇子こそ日の丸の扇子だったのです。そのご源平の合戦で源氏は平家を滅亡させるのですが、いよいよ最後に近づいた時壇ノ浦にて平家のご仁が船に的を立て、この的を射てみせよ、と言った時源氏の那須の与一が見事に弓矢にて射てた、それが又日の丸の扇子であった。つまり我こそが日ノ本の国の覇者であるということであった。

 

太陽信仰は古代においては世界共通の事象でありますが、日本は世界の東の端にあると自らも認めていたし、他からもみられていたので、とりわけ強い信仰があったと思われます。天皇家の祖先である天照大神が太陽の人格神化で天の岩戸の神話で明らかだ。

 

日本は独立国であると自覚と誇りをもってはじめて中国に対した聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という国書を当時の中国「随」の皇帝につかわした、という話は有名な話だが、ここにも太陽の出ずる国であることを誇っている意味合いがある。日の丸の旗の旗が、この太陽信仰にもとづいていることはまちがいない。(海音寺さんの著より)

 

 天皇家の旗、武家大名の軍旗などはずいぶん昔から使われている。朝廷の儀式の際、南北朝時代には、南朝の錦のみ旗には必ず金銀をもって日月を打ってあったというし、戦国時代には、武田信玄、上杉謙信、共に日の丸の旗をつかっている場合がある。

 

 一説によると、弘安四年「西暦1281年」の蒙古襲来の時、時の鎌倉政権は日蓮上人に頼んで日の丸をかこんで、その中に南無妙法蓮華経と書いてもらった旗を筑前「今の博多方面」の今津の浜の陣頭にひるがえさせたとある。「海音寺さんの著」とりもなおさず日の丸は日本国の象徴として使われているわけだが、日の丸を日本の国旗とする考えが出たのは幕末になって、外国船が頻繁に渡来するようになり、外交問題がやかましくなってからだ。旗というものは、他と自らを区別するためのものだ、強力に鎖国が行われ、日本だけを全世界と考えていた時はさして支障のない時代に必要のないのは当然だった。

 

 最初は諸外国の船と日本の船とを弁別するための旗印として、その必要が感ぜられた嘉永六年「1853年」十一月、薩摩藩主島津斉彬が、こう幕府にうかがいをたてた。「今度大船建造禁止令をご解除になったにつき本藩においては、洋風の大船十二隻蒸気船二隻を建造するつもりでいますが、それらの船には異国船にまぎれないように、白地に朱の日の丸の旗をかかげたいと思います。いかがでありましょうか」

 

 幕府では追って詮議の上で返答するであろうと答えて相談にかかり、翌安政元年七月に斉彬の考案したものを日本の総船印とすることに決定した。日本国籍の船全体の旗印だから、正式の国旗ではないが国旗的なものではあったのだ。この翌年安政二年二月薩摩では出来上がった船昇平丸を設計から工事一切、日本人だけで完成した最初の洋式帆船であったのだ。これに日章旗をかかげて、江戸湾に回航させた。これが日本船が日章旗をかかげた最初である。この船は幕府の所望によって幕府に献上した。この時から五年後、勝海舟らが臨海丸に乗って日本人だけで操船して太平洋を横断してアメリカを訪問したが、そこにはもちろん日章旗がひらめいていた。これが外国を訪問する日本船に最初にひらめいた日章旗である。それから徳川幕府はパリの万博に参加日章旗を我日本の国旗であるとした。この日の丸、日章旗が正式に国旗と定められたのは、明治三年正月だ。

 

今日はもうほとんど聞かれなくなったが、一時期日の丸に変えて新しく国旗を制定すべきだなど声があったが、了見のせまい話だ。国の長い歴史の中にはいろいろな事があることは個人と一緒だ。反省と後悔は忘れてはならないかも知れないが、こだわってはならない。国の場合も同じだ、顧みて恥じるところのない国がどこにあろう。どの国もいろいろな時期を経験して来ている。

 

日の丸の旗日章旗が日本人の誇りであり、全世界の有色人種の誇りであり、希望の光であった時代もあったのだ。国旗を変えようなどというせまい了見は捨てて、これを美しくて、輝き満ちてさわやかで、誇りあるものにすることを考えようではありませんか。 

 

 

                                  

参考文献:

海音寺潮五郎『史談と史論』